2026/02/09
昨日は広島でありがとうございました。久しぶりに沢山の人に出逢えた1日でした。雪が降っていても、とてもあたたかな日でした。
ひとつ『安心する世界』という小さな冊子を出していたのですが、それぞれの安心の行方について想いを馳せました。私にとっての安心とは、例えば昨日のような日は生み出すことや、交感することや、意味を観測することだと思う一方、今日は死を想うことがそれに近い感覚でした。生きがいを感じることと死を願うことに差は無いと思います。いつの頃からか距離を置かれ、特別視されていたり、怖がられていたりしているかもしれないそれは、ほんとうはまったくそうではなく、親しい位置にある。そんなことを思いながら掌の真ん中を指で押しているとじわじわ痺れて、ここに在るという感覚がそこから湧き出ているようでした。どのような感性でも、感覚でも、いつわりなく放していきたいです。それはきっと「大丈夫」と言うことなんじゃないかと思います。
2026/01/31
一昨日ハ左人差シ指ヲサクリト切リ、昨日ハ風邪デ寝込ム也。
古書店へ出掛ける。国道沿いで鰻の寝所の奥行きに神保町の古本屋のような佇まいをしている。いま漸く此処へ訪れたことが嬉しい。入店一歩目で以前気になっていたオラクルカードが真正面で出迎えたのち、2階の片隅で川西健介の詩に出会い、1階の何番地かで年齢の違う山川健一に拾われる。この街は随分と優しくなった気がする。抵抗を辞めた時、何かはやがてすぐに胸を広げて迎え入れるのだと思った。考えが浮上するたびに整理して、その時々で納得する答えを探す。それでも答えは仮のものでしかない。なぜならほとんどがわからないことだからだ。だから、その度にただ枝葉が分岐したことしかわからない。わかったふりをする遊びに没頭する。残しておくべきは高揚感だけだ。目が醒めるような感触だけを、繰り返し思い出しては転がすだけだ。
2026/01/18
「デジャヴュは変化を加えたときに起こる」。昨日の日暮、歩くスピードはだんだん落ちていって、意識が何かの羅列のなかに入っていったとき、ある事に気づいて私の足はぴたりと止まった。その直前、家を1軒、2軒と通り過ぎる度に中から同じ呼び出し音が聞こえたのを覚えている。手に持っていたカンテラを閉じた。遠くに見えるマンションのオレンジ色の電飾が、やけに近くに見える。
真冬のシアターでオレンジ色の薄暗がりで回りつづけるダンサーに目を回してしまった時、一緒に観ていた人が「僕も映画館でマトリックスを観た時は目眩がした」と言っていた。どちらの意味だとしても、物事は満を持していつも完璧なタイミングで用意される。どんな形をしていても、それは愛だろうと思う。「道を知ることと、実際に歩むことは違う。」
2026/01/13
デヴィッド・リンチが昨年亡くなっていたことを知る。彼の展覧会がベルリンで行われていて、友人に誘われてオープニングパーティーに行ったことを覚えている。人がひしめき合う夜、赤い部屋で何人もの人に囲まれているサングラスをかけた彼を見かけたが、デヴィッド・リンチがベルリンの美術館でオープニングパーティーに登場していたビジョンを自分が勝手に記憶として映像化しただけのような気もしている。彼が毎日天気予報を伝えている映像を見ていたけれど、彼の映画はひとつも見ていない。
2026/01/10
小川国夫『アフリカの死』1話目の「エル・キーフの傷」を読んだ。小川国夫には静岡のホテルで出会った。そのホテルではかつての浴場を図書室に改装し、古本コーナーを設けていた。宿泊者は元持ち主へのメッセージと引き換えにそこから本を1冊持ち帰ることができるが、私が手に取ったのは小川国夫の2冊の小説だった。だから私は2人分の筆跡でそれぞれの本を持ち帰った。2冊の本の提供者はいずれも同じ人物だった。「エル・キーフの傷」から先に進めないのは留まりたいからだ。相手の怪我を気遣い続けることや、物理的な痛みが既に快楽であることを知っているのはどこからともなくやってくる経験だ。だから傷に縋り続け、治らないことをやめない。完治は絶望にもなり得る、そういう楽しさを持つしかない時がある。もう1冊の『生のさ中に』で書かれていた話が頭の傍らでひとつふたつ思い出される。うろうろと彷徨う重たい体と高揚した意識の破片みたいなものが、汗で湿った肌と土埃の匂いがまとわりつくようないでたちをしている時。そういう渇望が歩き回っているのに気づいた時、私は自分の中にある欲望のようなものがよく磨かれているように感じる。いつかまた日本ではないどこかへ行きたい。今度はとても暑い場所に身を晒して、体の奥にどんなリズムがあるのか溶かしてみたい。知らないと思っているはずのところで、何かを思い出したい。知らないものに生まれ変わって、すべてを思い出したい。
2026/01/06
出力のサイズと形状をずっと考えあぐねていたけれど、考えるのをやめました。種類別に分類すれば統一感が生まれ、想像がしやすく、そして導かれやすいです。しかし出てくるマシーンは同じであり、もっと言うとその源はあらゆる意識やタイミングから生じているけれど、そのさらに源は1であり0です。だから、分別する必要は今のところありません。混乱は秩序であり、思考は彫刻である。絵を描くと安心する。手にとれる状態になった時、それはとてもやさしいものになっていると思いますが、このエリアはそこまできっと行きません。生々しくて新鮮なものは、とても熱いです。
2026/01/05
新年明けましておめでとうございます。このウェブサイトは、実験室であり、収蔵庫であり、書き物をしたり絵を置いたり放送したり、とにかく何でもプレイする場所です。こうして日記のような報告文をここに書き残すのも、思いつきですが、上も下も右も左もそのほかも出力するというdoingでありbeingとしたい。
2025/12/22
このサイトをオープンしました。